2004年 11月 15日
活字、アディクト、アアンもう〜
昔から活字が好きな子だったと思う。今でも文字が書いてあるものなら、とりあえず何でも読む。それこそ注意書きにいたるまでくまなく読む。読まないのは契約書とかぐらいか(読むからといって頭がいいわけじゃないところが、おのれの限界というやつだ)。
仕事で書いて、気分転換といって友達にメールを書く。仕事で読んで、息抜きに雑誌を読む。アホしかできない芸当である。何事も飽きっぽい自分が、なぜ文章については興味がつきないのが不思議だ。
ほんのひと握りの人をのぞけば、人間が操る言葉というのは限られていると思う。文章は苦手という人と、作家の人のボキャブラリーってそんなに変わらないのではないか。要は、その限られた言葉をどう使うかだ。
名前の使い方、かなか漢字か、語尾、記号…ささいな使い方ひとつで、同じボキャブラリーで構成された文章がまったく違った空気をかもしだす。そういう瞬間に立ち合った時「アアンもう〜」と身もだえしてしまう。
どの人にでも、その人しか書けない文章がある、というのがたまらなく愛おしい。「文章がヘタクソだとう?何言うか、おのれはおのれの愛らしさに気づいとらんのか、このバカチンが!」と叫びたい気分だ。
そういえばヌーヨークにいた時「そうか、英語でもそうなんだ」と気づいた瞬間があった。難しい単語なんて知らなくても、つたない文章でも「味」って確かにあるんだよなあ〜って思った時、なんだかすごく英語が好きになった。
とはいえ、ヌーでは英語は必修科目なわけなので、どうしてもお勉強になるのが残念だが…。雑誌なんかも資料として読んでたから、必死である。そのぶん日本語の印刷物は、それこそすり切れるほど読んだなあ。
すいません、なんか今日はとってもいい原稿を読んだので、つい興奮してしまいました。
仕事で書いて、気分転換といって友達にメールを書く。仕事で読んで、息抜きに雑誌を読む。アホしかできない芸当である。何事も飽きっぽい自分が、なぜ文章については興味がつきないのが不思議だ。
ほんのひと握りの人をのぞけば、人間が操る言葉というのは限られていると思う。文章は苦手という人と、作家の人のボキャブラリーってそんなに変わらないのではないか。要は、その限られた言葉をどう使うかだ。
名前の使い方、かなか漢字か、語尾、記号…ささいな使い方ひとつで、同じボキャブラリーで構成された文章がまったく違った空気をかもしだす。そういう瞬間に立ち合った時「アアンもう〜」と身もだえしてしまう。
どの人にでも、その人しか書けない文章がある、というのがたまらなく愛おしい。「文章がヘタクソだとう?何言うか、おのれはおのれの愛らしさに気づいとらんのか、このバカチンが!」と叫びたい気分だ。
そういえばヌーヨークにいた時「そうか、英語でもそうなんだ」と気づいた瞬間があった。難しい単語なんて知らなくても、つたない文章でも「味」って確かにあるんだよなあ〜って思った時、なんだかすごく英語が好きになった。
とはいえ、ヌーでは英語は必修科目なわけなので、どうしてもお勉強になるのが残念だが…。雑誌なんかも資料として読んでたから、必死である。そのぶん日本語の印刷物は、それこそすり切れるほど読んだなあ。
すいません、なんか今日はとってもいい原稿を読んだので、つい興奮してしまいました。
by akiedayumi
| 2004-11-15 00:00
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